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地形から見る山の手と下町

山の手と下町

大名屋敷の地形でもふれましたが、山の手と下町の地形の違いをもう少し詳しく見てみましょう。
東京の地形は、大きく西側の台地と東側の低地に分かれます。右はカシミール3Dで見た東京中心部の標高を示す地図です。青色の部分は標高が低いところで、黄色は高いところを示します。中心にある皇居を含め西側は標高が高く、東側が低いことが一目でわかります。この武蔵野台地上を山の手、低地を下町といいます。山の手の代表的な土地は、麻布、本郷、四谷などです。一方下町は深川、神田、日本橋、浅草といったところです。

もともと、山の手と下町という言葉は地形からきたものですが、同時に、街の雰囲気を指す言葉ともなっています。高台の山手には大名や旗本が住んでいたところから、高級住宅地のイメージがあります。それに対し低地の下町は主に商人や職人が住んでいた町で、庶民的なイメージです。

青山渋谷絵図

青山渋谷絵図

青山霊園の地形図

青山霊園の地形図

「山の手」のわかりやすい例は、郡上藩青山家の下屋敷です。ここは現在青山霊園になっています。右上の地図(カシミール3Dで作成。以下の地図も同じ)で見ると、霊園の土地は台地上にあり、道路がちょうど低地との境になっていることがわかります。霊園を東西からはさむ低地は笄(こうがい)川の流路で、古川(渋谷川の下流)に注ぎますが、今は笄川は暗渠になっています。左上の江戸切絵図『青山渋谷絵図』を見ると、「青山大膳亮」と記された青山家の屋敷の西側は、原宿村の水田になっています。

一説では、徳川家康の関東移封の後、青山忠成が家康に「馬に乗って一回りしただけの土地をやる」と言われ、馬で走り回ってこの地を得たといいます。ところが、このようにはっきりと地形で土地の境界が区切られているところを見ると、この伝説は事実ではないと言えそうです。むしろ、地形を精密に調べた上で土地の境界を決めたと考えるべきでしょう。
なお同じ話は、現在の新宿御苑付近に領地を持っていた内藤清成にもあります。

武家屋敷は、主に軍事的な理由から高台に置かれたと考えられています。ただ、武士の住む町と町人地が完全に地形で分かれていたわけではありません。たとえば本所は低地で、下町と見なされていますが、ここは主に下級武士が住む町でした。また、本所・深川には、大名の下屋敷もたくさんありました。

本郷湯島絵図

本郷湯島絵図

本郷の地形図

本郷の地形図

例外的ですが、山手の台地上に町人地がある場合もあります。これは主に街道沿いの土地です。右上は本郷の東京大学付近の地図ですが、見てわかる通りここは台地上です。南北に走る大きな道路が本郷通りで、これは江戸時代の中山道そのままです。一般には本郷は山の手と目されますが、左上の『本郷湯島絵図』を見ると、この中山道沿いは町人地(灰色の部分)になっています。その他、半蔵御門──四ッ谷御門──四谷大木戸とつながる甲州道中(甲州街道)沿いの土地も、台地上の山の手ですが町人地でした。

四ツ谷絵図

四ツ谷絵図

若葉の地形図

若葉の地形図

さらに、山の手と言っても全てが台地上というわけではなく、局所的に見ると、樹枝状の谷底低地が存在します。そういう所は町人地に当てられていることがあります。たとえば左上の『四ツ谷絵図』を見ると、山手の武家地(白色)や寺社地(赤色)の中に「鮫ヶ橋」という町人地が奇妙な形で食い込んでいるのが分かります。江戸東京重ね地図で見てみると、この町割は現在もほぼそのままで、大まかに言うと、元の鮫ヶ橋谷町が現在の新宿区若葉2丁目、鮫ヶ橋北町・鮫ヶ橋表町が若葉1丁目に当たります。

新宿区若葉の地図をMapionで見る

これはいかにも不自然な町割ですが、右上の地形図を見ると、旧鮫ヶ橋の地は山手の台地を刻む樹枝状の低地になっていることが分かります。地形から決まった江戸時代の町割が、現在までそのまま残っているのです。このように、江戸の地図で時に見られる奇妙な町割は、地形図を見るとその理由がわかることが少なくありません。

現在では、こうした細かい地形に関する考察は抜きにして、単純に東京の西は山の手、東は下町と見なされ、言葉の持つイメージだけで語られることがほとんどです。ですが、時には足下の地形を見直して、言葉の本来の意味を確かめてみてはいかがでしょうか。

※国土地理院発行の数値地図25000(地図画像)「東京首部」「東京西部」、基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュを使用しました。
※切絵図の画像は国立国会図書館デジタル化資料を使用しました。

参考文献:正井泰夫『江戸・東京の地図と景観―徒歩交通百万都市からグローバル・スーパーシティへ』古今書院
※この本に付属している「大江戸地理空間図」(縮尺1:20000)は、幕末における江戸の土地利用を示したもので、大名の上屋敷・中屋敷・下屋敷や、寺社地、町屋などがどのように分布していたかが一目で分かります。洪積台地の崖線も記されているので、地形と土地利用の関係も知ることができます。実に興味深い地図で、一見の価値があります。

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最終更新日:2013/1/1
公開日:2010/12/22