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大名屋敷の地形

東京には山の手と下町という言葉があります。元は、本郷・駒込・麻布などにあった武家地と、日本橋・神田・深川などにあった町人地の違いを指した言葉です。この言葉の通り、大まかに言って武家屋敷は台地上、町人地は低地というイメージがあります。実際のところはどうだったのか、特に徳川御三家の大名屋敷に注目して地図ソフトのカシミール3Dで確かめてみましょう。地図は標高の低い部分を緑色、高いところを黄色で表示しています。

尾張藩徳川家上屋敷跡

尾張徳川家
尾張徳川家の上屋敷跡は、現在は防衛省になっています。これは完全な台地上で、防衛省南側の靖国通りは標高18m前後ですが、防衛省敷地は30m以上あります。もともと尾張徳川家は、江戸の西の守りのためにこの地に配置されており、その任務に絶好の要害の地に屋敷を構えていたことがわかります。

紀伊藩徳川家上屋敷跡

紀伊徳川家
紀伊徳川家の上屋敷は、現在の紀尾井町(グランドプリンスホテル赤坂跡地周辺)にありました。敷地の西側は低地ですが、屋敷があったのは東側の台地上です。江戸切絵図を見ると、門は東側にあったことがわかります。なお紀尾井町という町名は、紀尾井坂から来たものです。紀尾井坂は、紀伊徳川家(和歌山藩)上屋敷、尾張徳川家(名古屋藩)拝領屋敷、井伊家(彦根藩)中屋敷に囲まれていたことからその名がつきました。

水戸藩徳川家上屋敷跡

水戸徳川家
ところが御三家の中でも、水戸徳川家の上屋敷は他とは違い、完全な平地です。ここは現在東京ドームになっていますが、この地はもともと小石川の流域でした。小石川は平川と合流し、日比谷入江(江戸の道路と地形参照)へと流れていました。低地にあった水戸徳川家上屋敷は地盤が弱く、1855年の安政大地震の時には大きな被害を受けました。台地上にあって被害が少なかった尾張徳川家や紀伊徳川家とは対照的です。また関東大震災でも、当時ここにあった陸軍東京砲兵工廠は壊滅的な被害を受けています。

大名小路・西丸下跡

低地にあった大名屋敷として、江戸城お膝元の西丸下(現在の皇居外苑)や大名小路(現在の丸の内)の例もあります。ここには老中・若年寄などの屋敷が集中していました。幕府の中でも重要な大名の屋敷は、むしろ低地にあったのです。この付近は日比谷入江を埋め立てた跡で、安政大地震の際にはやはり大きな被害を受けました。

このように、大名屋敷のすべてが台地上にあったわけではありません。山手と下町という言葉も、必ずしも実際の地形を正確に反映したものではないのです。大名屋敷には、水戸徳川家上屋敷(後楽園)や尾張徳川家下屋敷(現在の外山公園)のように、屋敷の中に大規模な庭園を設けた例も珍しくありません。そうした庭園の多くは、池や湧き水があり、地形も変化に富んでいます。こうした屋敷の地形を比較してみるのも面白いでしょう。なお大名屋敷の地図を見たい時には、『切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩』が便利です。

※国土地理院発行の数値地図25000(地図画像)「東京首部」、基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュを使用しました。

参考文献:メディアユニオン編『江戸屋敷300藩いまむかし』有楽出版社

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最終更新日:2012/1/29
公開日:2010/1/24