江戸切絵図
最近、古地図の中でも江戸切絵図の人気が高まっています。切絵図は「地域別に区切って作った絵図」、つまり区分図という意味ですが、特に江戸のものを指すことがほとんどです。切絵図には大名や旗本などの屋敷が人名つきで記されており、現在の住宅地図のはしりといってもいい存在でした。それ以前の、江戸全体を記した大きな地図とは違い、携帯に便利なため広く普及しました。
一般に江戸切絵図とは、登場した順番に吉文字屋(きちもんじや)板、近吾堂板、尾張屋板、平野屋板の四種類を指しますが、江戸全体をカバーしたのは近吾堂板と尾張屋板で、特に有名なのもこの二つです。
※「近吾堂版」や「尾張屋版」とも書かれますが、木版の場合は「板」の字を使います。
吉文字屋板
吉文字屋は、1755(宝暦5)年から1775(安永4)年までの間に8枚の切絵図を出版しています。売れ行きはあまりよくなかったようで、刊行ペースもゆっくりしたものでした。結局江戸全体を刊行することなく中断しています。
『下谷浅草絵図』(国土地理院サイト)
近吾堂板(近江屋板)
麹町十丁目にあった荒物屋の近江屋が1846(弘化3)年から刊行を始めた地図です。
近江屋があったのは四ツ谷御門(現在の新四谷見附橋)のすぐ近くで、これは武士の住居地である番町の入り口にあたります。江戸時代には表札を出す習慣もなく、また特に番町のような屋敷街では目印になる建物などもないため、地理を知らない者には人の家を訪ねるのも一苦労でした。
近江屋では、武家屋敷を訪ねる人からひっきりなしに道を聞かれるため、説明のために番町の地図を作ったのですが、地図の人気が出たために販売を始めました。近江屋はもともと地図とも出版とも無関係でしたが、このアイデアは非常に当たり、番町以外の地図も刊行することになったのです。近吾堂板は、やがて31枚(のち数が増えて38枚)の地図で江戸全体をカバーするに至ります。
堂号は近吾堂、屋号は近江屋で、近吾堂板とも近江屋板とも呼ばれますが、近吾堂板の方が一般的です。
上は南東で、右下の青い筋が隠田川(渋谷川)です。
尾張屋板(金鱗堂板)
江戸切絵図の中でもっとも有名なのが尾張屋板です。
1849(嘉永2)年、近吾堂板の成功を見て、絵草紙商の尾張屋も切絵図の販売を始めました。出版には関係あるとはいえ、もともと尾張屋も地図専業ではありません。
尾張屋板は近吾堂板との差別化を図ったのか、川や海が青、道路が黄、土手や畑が緑、武家地が白、神社仏閣が赤、町家が灰と色分けされており、非常にカラフルでした。寺院や名所などには写実的な絵も描かれており、まるで錦絵のような印象を受けます。そのせいか近吾堂板よりも人気があり、現在残っている尾張屋板の切絵図の数は近吾堂版の数倍に達します。
堂号は金鱗堂、屋号は尾張屋ですが、一般的には尾張屋板と呼ばれます。
なお、尾張屋板の切絵図『麹町永田町外桜田絵図』(国際日本文化研究センターサイト)には、尾張屋自身の家が掲載されています。半蔵御門と四ツ谷御門を結ぶのが麹町通りですが、その六丁目に「切ヅ板元金リン堂」と記してあります。切絵図では、町人地には町名だけしか書かれないのが普通なので、これは尾張屋の宣伝だったのでしょう。
上は北西で、右上から左下に流れているのが隠田川(渋谷川)です。
右は『染井王子巣鴨辺絵図』の飛鳥山付近の地図です。桜の名所だけあって、桜の木が描かれているのがわかります。なにやら石碑のような物も立っていますが、これは1737(元文2)年に建立された「飛鳥山碑」でしょう。また、神明宮の前には鳥居も描かれています。このように、単なる地図にとどまらず、その場の風景の写実的な絵が描かれているのが尾張屋板の特徴です。
また、「六コク坂」(六石坂)の下には「此辺料理屋多シ」とあります。「扇屋」とあるのは、『江戸名所図会』にも載っている有名な料理屋です。こうした説明も至る所に加えられており、今のガイドブックのような使われ方もしていたのでしょう。
平野屋板
1852(嘉永5)年、最後に登場したのが平野屋板です。
現代の地図に近い発想で作られた切絵図で、縮尺・方位は一定、江戸の町をメッシュ状に分割し、完全に連続する地図です。江戸全体を40枚の地図で刊行する予定でしたが、3図だけで終わりました。正確ではありましたが、かえって実用的には使いづらいものだったようです。
『八町堀霊岸島箱崎浜町日本橋辺之図』(東京大学サイト)
地図下のコンパスローズ(方位を示した円)が目を引きます。これから見ると、おそらく西洋の地図の影響を受けていたのではないでしょうか。
切絵図にはいくつかの決まりがあります。これには各板に共通するものと、それぞれに固有のものとがあります。
まず屋敷の人名がデタラメの向きで書かれているように見えますが、これは頭文字が書かれている側が門です。武家屋敷だけでなく、寺社についても同じです。大きな屋敷だと門を探すために周囲を廻るのも一苦労なので、これは便利な表記法でした。このことについては切絵図の凡例には何の説明も記されておらず、当時はすでに常識だったようです。右は尾張屋板『青山渋谷絵図』ですが、谷播磨守と鍋島熊次郎の屋敷の門は向かい合っていることになります。
また町名は江戸城の方向を頭にして書かれており、坂の名前は頭文字が坂の上側です。さらに近吾堂板では、川の名前は上流から下流に向かって書かれています。尾張屋板では、上記の色分けに加え、大名の上屋敷には家紋、中屋敷には■の記号、下屋敷には●の記号が付されていました。右は尾張屋板『青山渋谷絵図』の合印(凡例)です。
切絵図は非常な好評を博しました。その背景には、江戸の地理に不案内な人々が常に多数存在していたことが挙げられます。江戸の住人の半分は武士で、その中の多くが参勤交代で国許から来ていました。また商人なども地方から来る者が多く、江戸には常に大量の流入人口があったのです。そうした人々にとって切絵図は実に便利なものでしたが、もともと江戸に住んでいた人からも歓迎されたのはもちろんです。また切絵図は実用品として用いられるだけでなく、浮世絵などと並んで江戸土産としても重宝されました。
平野屋板を除けば、切絵図は縮尺も図によってバラバラで、土地の形も不正確でした。ただしこれは測量技術が発達していなかったからではありません。一体性を持つものとして認識されていた地域を一枚の範囲に収め、なおかつ長方形の紙面を有効に活用するためには、多少のデフォルメはむしろ自然な結果でした。そうした不正確さが逆に人間の感覚には合致していたようで、正確な平野屋板は切絵図の主流となることはできませんでした。
こうした切絵図は、江戸について調べる際には必須と言ってもいいでしょう。もっとも研究者からは、誤記が少なくないことも指摘されています。武士の住居などを正確に調べたい時には、切絵図だけを参考にするのではなく、武鑑(武士の職員録のようなもの)などと比較する作業も必要になってきます。
※切絵図の画像は国立国会図書館デジタル化資料を使用しました。参考文献:俵元昭『江戸の地図屋さん』吉川弘文館、飯田龍一・俵元昭『江戸図の歴史』築地書館
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尾張屋板を復元した一枚物の江戸切絵図の復刻版が刊行されています。
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最終更新日:2013/6/24
公開日:2008/12/4