地図趣味のすすめ

地図趣味のすすめtop >地図の雑学 >江戸の道路と地形

江戸の道路と地形

江戸の街道の基点は日本橋ですが、現在でも東京の日本橋は主要国道の始点となっています。日本橋から北に伸びるのが国道17号、南に伸びるのが国道15号ですが、これは一括して中央通りという通称で呼ばれています。
日本橋を地図で見ると、中央通りが日本橋で逆「くの字」形に折れ曲がっています。いかにも不自然な曲がり方ですが、実はこれは江戸時代の道路そのままで、屈曲にもちゃんと意味があるのです。

中央通りの江戸時代の名称は通り町(とおりちょう)筋です。慶長8(1603)年に日本橋が作られた後、江戸のメインストリートとして整備されたのが通り町筋です。通り町筋は、筋違橋御門(現在の万世橋と昌平橋の中間)──日本橋──京橋──新橋(芝口橋ともいう。現在の新橋郵便局付近)という三つの直線部からなり、これは現在の道路にもそのまま引き継がれています。(『東京時代MAP 大江戸編』等を参照)

通り町筋はこのように日本橋・京橋で二度屈曲していますが、その理由を都市史研究家の鈴木理生氏は以下のように明快に説明しておられます。これは、各地区の尾根の部分を結んで道路が作られたことによるそうです。低地に発達した都市である江戸では、どのように下水道を設置するかという点が都市計画上大きな問題でした。下水が自然に流れるようにするためには、土地の高低を厳密に管理する必要がありました。そこで標高の高い部分に幹線道路と下水道を設け、そこから左右に道路と下水道を分岐させる形で町を形成していったのです。また標高の高い部分を幹線道路にするのは、上水道を設置する際にも有利でした(『江戸はこうして造られた』)

江戸前島・日比谷入江

この鈴木氏の説を、デジタル標高地形図で検証してみましょう。デジタル標高地形図は国土地理院が刊行している地図で、標高が低い部分から高い部分に向かって青→緑→黄→橙→赤と色が変化します。
これを見ると、本郷台地から続く、標高が高い緑色の部分が新橋付近まで伸びていますが、中央通り(通り町筋)はこの標高が高い部分のほぼ中央を通っていることがわかります。特に京橋での屈曲は、地形に完全に追随していることが明らかです。

※国土地理院ホームページ掲載の1:25,000デジタル標高地形図画像データ「東京都区部」を使用しました。

この標高が高い緑色の部分は地形学上は日本橋台地といいますが、歴史的には江戸前島です。徳川家康が江戸入りした頃は、現在の日比谷公園・皇居外苑のあたりまでは日比谷入江と呼ばれる海が貫入しており、その東側に江戸前島という半島が突き出ていました。その後、家康によって日比谷入江は埋め立てられ、半島としての江戸前島は姿を消しましたが、微細な標高の差からは今でもその痕跡を確認することができるのです。

中央通りの標高が高いといっても、実際にはその変化は小さなものです。地図ソフトのカシミール3Dで見ると、中央通りの標高は5メートルで、約270メートル離れた東京駅前(八重洲側)の外堀通りは標高4メートルと、ごくわずかしか標高は変化していないことがわかります。このわずかな標高の差を利用した昔の土木技術の高さには驚くばかりです。

なんということもない道路の曲がり方一つにも、実はこんな深い歴史があったのです。

参考文献:鈴木理生『江戸はこうして造られた』ちくま学芸文庫

地図の雑学に戻る

最終更新日:2010/5/15
公開日:2008/12/4