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復刻版古地図

いずれも人文社から発行されている一枚ものの地図で、昔の地図を復刻したものです。東京の過去の地図と現在の地図との比較を知りたい方は東京の現在と過去もご覧下さい。

東京大絵図

1871年(明治4年)発行の古地図の復刻版です。版元は「吉田屋文三郎」とあります。川や海が青、道路が黄、土手や畑が緑、神社仏閣が赤という色分けが、尾張屋板の江戸切絵図とまったく同じです。非常にカラフルで、切絵図の連続版という趣きです。また尾張屋板と同様、寺社には写実的な絵が描かれています。ただ、上野の寛永寺に中堂と山門が描かれていますが、これは1868年(慶応4年)の彰義隊の戦(上野戦争)で焼失しています。旧大名屋敷の文字の向きも江戸切絵図と同じで、元の上屋敷には家紋も記されており、基本的に江戸期の地図の伝統を引き継いだものといえます。

ただ、細かく中身を見ていくと、江戸時代の地図との違いを見つけることができます。まず一番大きな違いは、中央の江戸城に「皇居」と書いてあることです。また、かつての大名屋敷にも変化が見られます。たとえば、小石川の水戸徳川家上屋敷跡は「造兵司」になっています。これは兵部省(陸軍省の前身)の組織で、のちの東京砲兵工廠です。八重洲(現在の丸の内)近辺は旧藩主の屋敷が多いのですが、兵部省、司法省等の役所も目につきます。
また至る所に「桑茶畑」、「クハチヤ」という文字が目につきます。これは当時空き家が多くなった武家屋敷を利用して、桑や茶の栽培が奨励されたことを反映したものです。この政策は1869年(明治2年)に開始されましたが、1872年(明治5年)には早くも中止されています。

田安御門の北には「招魂社」があります。1869年(明治2年)に設置されたばかりの東京招魂社で、のちの靖国神社です。
鉄砲洲築地には「外国人居留地」とあります。これは1868年(明治元年)に設けられましたが、1872年(明治5年)の大火で被害を受けました。また同年に新橋-横浜間の鉄道が開通した後、外国人は横浜に移動したため居留地は短期間で姿を消しました。

溜池のほとりの佐賀鍋島家旧中屋敷(現在の虎の門病院・国立印刷局付近)には「佐賀ケン 鍋島」とあります。ところが、外桜田の広島浅野家旧上屋敷(現在の中央合同庁舎第2号館付近)には「藝州」とあり、表記が統一されていません。この地図の凡例には「明治四辛未秋八月改正」とあります。廃藩置県は1871年(明治4年)7月ですから、ちょうど藩から県に変わる過渡期に出版されたことになります。

このように、この地図では、江戸から東京へと急速に変化していく街の姿を見てとることができます。なおこの『東京大絵図』には大きな判もありますが、今のところAmazonで入手できるのは縮小版だけです。

実測東京全図

1879年(明治12年)発行の地図です。「明治十一年八月地理局銅鐫」「明治十二年十月校補」とあります。『東京大絵図』のような木版ではなく銅版なので、線が細くくっきりしています。北が上で、地名の向きもほぼ一定しています。経線・緯線も記されており、近代的な地図の印象を受けます。皇居、赤坂離宮、浜離宮などの皇室関連施設は薄紫、官庁や軍の施設は薄赤、神社仏閣はオレンジ、川や池は薄青で記されています。1里を示すスケールはありますが、具体的な縮尺は書かれていません。計算してみると約1:20250になります。

八重洲町(現在の地名は丸の内)には軍用地が目立ちますが、役所も増えています。鍛冶橋の近く、津山藩松平家上屋敷跡(現在の東京駅付近)に「警視局」という役所があります。1874年(明治7年)に設置された東京警視庁は、1877年(明治10年)に廃止され、同年内務省警保寮から名前を変えた内務省警視局に吸収されました。その後、1881年(明治14年)に再び警視庁として復活し、同年警視局は警保局となっています。この地図は、警視局が存在したわずかの期間に作られた地図ということになります。

半蔵門の外の陸奥七戸藩南部家・大和新庄藩永井家の上屋敷跡には「英公使館」とあります。最初のイギリス公使館は高輪の東禅寺に設置され、その後横浜、御殿山などに移転した後、1872年(明治5年)にこの地に移りました。イギリス大使館は現在もこの場所にあります。また新橋には、1872年(明治5年)に開通した鉄道の線路を見ることができます。

街の姿が大きく変化していく中で、江戸の名残も一部には残っています。外堀の牛込門(現在の牛込橋)、四谷門(現在の新四谷見附橋)、赤坂門(現在の東京メトロ半蔵門線・南北線永田町駅付近)などには枡形(升形)があるのがわかります。枡形とは、城門に設置された空間で、侵入した敵が直進するのを防ぐ施設です。外堀にあった枡形はのちに破却されますが、この当時にはまだ残っていたのです。
また石川島には「懲役場」とあります。これは江戸時代の人足寄場跡に作られたもので、1895年(明治28年)に巣鴨監獄に移管されるまでこの地にありました。

東京の姿が徐々に確立されつつある時期の地図といえます。

東京市十五区全図

1907年(明治40年)に東京市役所が発行した地図で、縮尺は1:12000です。約90×120センチとかなりの大判です。1878年(明治11年)、郡区町村編制法の施行により麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区の15区が誕生します。さらに1889年(明治22年)、この15区が東京市となります。これは、この15区からなる東京市の姿を描いた地図です。西北西が上で、地名などの文字の向きは皇居側が頭になっており、かつての江戸図の伝統を引き継いでいます。海・河川は薄青、緑地・公園は緑に着色されています。

皇居付近で目立つのは日比谷公園です。日比谷公園は長州藩毛利家や佐賀藩鍋島家、岩国藩吉川家などの上屋敷跡で、維新後の一時期は陸軍の練兵場になっていました。『実測東京全図』にも練兵場として記されています。その後政府は日比谷に官庁街を建設する計画を立てましたが、地質調査の結果不適当とされたため、公園として整備することになりました。もともとこの付近は日比谷入江という海を埋め立てた跡で、地盤が弱いのです。(江戸の道路と地形参照)
日比谷公園は1903年(明治36年)開園なので、この地図には開園したばかりの姿が描かれていることになります。また、大手町・八重洲町界隈にあった軍の施設はほぼ姿を消しました。『実測東京全図』では西の丸下(現在の皇居外苑)にも政府や軍の施設がありましたが、この地図では空白になっています。

その他、鉄道・市電の線路がかなり目立つようになっています。当時国有化されたばかりの甲武鉄道(中央線)の線路が御茶ノ水から西に向かって伸びています。また『実測東京全図』にはまだなかった月島が登場しますが、この埋め立てが完了するのは大正になってからです。月島は相生橋で深川と連結していますが、築地側への架橋はまだで、渡し船の航路が描かれています。ちなみに勝鬨橋の完成は1940年(昭和15年)で、佃大橋に至っては1964年(昭和39年)です。
『実測東京全図』で「警視局」があったところ(八重洲町二丁目)には「警視廳」とあります。

以上のように、この地図では、東京の原型がほぼ完成した姿を見ることができます。

早分かり番地入東京市全図

1921年(大正10年)発行の地図の復刻版です。縮尺は不明で、西が上です。大きさは横79×縦54センチです。市電の線路が載っていますが、路線ごとに色分けしてあるので見やすくて便利です。地図全体にグリッドが切ってあり、横にいろは、縦に123の記号が割り振られています。おそらく元の地図には索引があったのでしょうが、そこまでは復刻されていません。

どういうわけか銅像に詳しく、「銅像」という記号があり、靖国神社の大村益次郎や上野公園の西郷隆盛のほか、九段坂の品川弥二郎、外務省前の陸奥宗光の像なども記されています。
坂の名前も載っており、麹町区上六番町(現在の千代田区三番町)には「東郷大将邸」があり、その前には「東郷坂」とあります。東郷大将とはもちろん東郷平八郎のことです。

東京中心部で一番目立つのは東京駅です。1907年(明治40年)発行の『東京市十五区全図』では「中央停車場敷地」となっていたところに「東京停車場」とあります。東京駅は1908年(明治41年)に着工し、1914年(大正3年)から営業を開始しました。東京駅前には市電が通っており、「乗車口」と「降車口」という駅があります。これは、現在の東京駅丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分かれていたことによります。

現在の東京大学には「帝國大学」とあり、さらに「工科大学」「文科大学」「法科大学」等と書かれています。東京帝国大学は分科大学制を取っており、たとえば現在の東大法学部は「東京帝国大学法科大学」と呼ばれていたのですが、1919年(大正8年)に学部制が敷かれ、従来の分科大学は廃止されました。もっともこの地図から見ると、その後もまだ「~科大学」という呼び方が一般的だったようです。

浅草には小さな塔の絵が描かれており、「十二階」とあります。これは当時東京一の高さを誇っていた凌雲閣のことです。展望台として多くの見物客を集めていましたが、関東大震災で倒壊しました。

現在との区画の違いも目立ちます。
この地図の本所北二葉町、本所南二葉町、本所緑町(現在の墨田区石原、亀沢、緑)などはもともと下級武士の住む武家地で、江戸時代から東西南北に道路が走っていました。この地図でも整然とした町並みで、これは現在にそのまま受け継がれています。

ところが、同じ墨田区でも向島は江戸時代は農村で、あぜ道の道路が明治になってもそのまま利用されていました。この地図の本所区向島小梅町付近(現在の墨田区向島1~3丁目)を見ると、道路が曲がりくねっており、現在の区画とは異なることがわかります。この付近は関東大震災では焼失しなかったのですが、震災後の復興事業の一環として区画整理が実施され、現在のように碁盤目状の整然とした町並みになりました。なお本所区新小梅町に「徳川邸」とありますが、これは水戸藩の蔵屋敷跡です。現在は隅田公園になっていますが、隅田公園も震災後の復興事業で建設されたものです。

このように、関東大震災で壊滅する直前の東京の姿が描かれており、震災による変化を知るには格好の資料です。

帝都復興東京市全図

1929年(昭和4年)、関東大震災から復興した後の東京の地図です。縮尺は1:10000で、横109×縦145センチとかなりの大判です。海・川は青、道路は黄、公園は緑に着色されています。

関東大震災の後、「帝都復興」のため、大規模な区画整理を実施して幹線道路を縦横に建設する計画が立てられました。この地図には、建設予定の都市計画道路が点線で表示されています。このうち、明治通りなどは計画どおり建設されましたが、実現しなかった道路も少なくありません。東京通り名マップと比較すると、都市計画の結果がよくわかります。

一ツ橋通町(現在の千代田区一橋通)に「商科大学」があります。これは東京商科大学(現在の一橋大学)です。東京商科大学は関東大震災で大被害を受け、1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)にかけて国立に移転しています。この地図は、移転の最中の姿ということになります。

皇居外苑、馬場先門内に「警視廳」があります。関東大震災前、警視庁は帝劇前の堀端にありましたが、震災で焼失したため、翌1924年(大正13年)にこの地に移転しました。一方この時期には新庁舎の建設が既に始まっています。外桜田町(桜田門外)に「警視廳舎建築所」とあるのがそうです。工事は1926年(大正15年)に開始され、1931年(昭和6年)に完成しました。庁舎は新しくなりましたが、警視庁は今もこの地にあります。

西日比谷町(現在の千代田区霞が関)には「拓殖省」とあります。現在の中央合同庁舎6号館(最高検察庁など)の場所ですが、これは「拓務省」の間違いです。拓務省は植民地統治を管轄する役所で、1929年(昭和4年)に設置されました。当初は拓殖省とする予定でしたが、のちに拓務省に改められました。この地図では訂正が間に合わなかったのでしょう。

小石川大塚町(現在の文京区大塚)には「陸軍東京兵器支廠跡」という大きな空き地があります。その後1932年(昭和7年)には、この地に東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大)が移転しています。

この時期では、軍の施設はまだちゃんと記載されています。その他、東京湾には「埋立工事中」という所が目立ちます。
この地図は、「もしこの都市計画道路が実現していたら……」と、「あったかもしれない東京」を想像しながら眺めるのが正しい見方でしょう。

復刻大東京三十五区分詳図

東京15区・35区・23区の変遷
15区 35区 23区
麹町区 千代田区
神田区
日本橋区 中央区
京橋区
芝区 港区
麻布区
赤坂区
四谷区 新宿区
牛込区
淀橋区
小石川区 文京区
本郷区
下谷区 台東区
浅草区
本所区 墨田区
向島区
深川区 江東区
城東区
品川区 品川区
荏原区
目黒区
大森区 大田区
蒲田区
世田谷区
渋谷区
中野区
杉並区
豊島区
瀧野川区 北区
王子区
荒川区
板橋区 板橋区
練馬区
足立区
葛飾区
江戸川区

太平洋戦争が始まった年、1941年(昭和16年)発行の地形社編の地図の復刻版です。1932年(昭和7年)、従来の15区に加えて新たに20区が誕生し、東京市は35区となりました。これはその35区ごとの一色刷の区分地図で、一つの区を一枚の地図に収めているため、地図によって縮尺は異なります。面積の広い世田谷区は1:19000、狭い日本橋区は1:5000といった具合です。また、方位も地図によって異なり、上が北とは限りません。

軍関係の施設などの戦略拠点は不正確です。たとえば杉並区の地図では、宿町の中島飛行機製作所(現在の桃井3丁目)の部分が空白になっています。ところが、東京都立中央図書館所蔵の地形社の地図を見ると、ちゃんと中島飛行機が載っています。一方、中野区囲町(現在の中野4丁目)を見ると、元の地図は空白になっていますが、復刻版では「電信聯隊」となっています。実際は、この時期には秘密戦教育を行う陸軍中野学校が電信連隊跡地に設置されていましたが、もちろんこれは軍部内でも機密事項です。
どうやら、元になった地形社の地図にも版が複数あり、版によっては軍の施設が掲載されているものがあるようです。

新旧町名の一覧表があるのは便利です(中野町大字囲→囲町など)。また一部の地図は、元になった地図に書き込みがされており、そのまま復刻されています。元になった東京地形社の地図はカラーで、地番は赤、道路は黄、川は青と色分けがされています。これはやはりカラーの方が断然見やすく、カラーで復刻されなかったのは残念です。

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最終更新日:2010/8/3
公開日:2009/12/5