地図趣味のすすめ

地図趣味のすすめtop >地図の雑学 >永井荷風と地図

永井荷風と地図

作家の中にも、地図を愛用していた人は少なくありません。よく紹介されるのが永井荷風です。荷風が大正3(1914)年から4(1915)年にかけて書いた『日和下駄』の「地図」という一節は、「蝙蝠傘を杖に日和下駄を曳摺りながら市中を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板の江戸切図を懐中にする」という文章で始まります。

市ヶ谷牛込絵図

荷風は、牛込弁天町(現在の新宿区弁天町)にあった根来橋と江戸切絵図を照らし合わせ、近くに根来組同心の屋敷があったことを知って「歴史上の大発見でもしたように訳もなくむやみと嬉しくなるのである」と記しています。荷風は「かような馬鹿馬鹿しい無益な興味」と卑下していますが、現代のわれわれと同じような地図の楽しみ方をしていたわけで、まさに地図趣味の先達と言える人物です。

ためしに右の尾張屋板『市ヶ谷牛込絵図』を見てみると、確かに「根来百人組」と記されたエリアがあります。さらに江戸明治東京重ね地図で確認すると、根来百人組の区画の中に小川が流れているのがわかります。この川は明治の地図でも確認できますが、現在の地図では見当たらないので、おそらく暗渠になっているのでしょう。根来橋がかかっていたのはこの川だと思います。

荷風は「嘉永板」と記していますが、これは嘉永年間に出版された地図という意味なので、これだけではどこの版元から出たものかわかりません。版元を推測する上で参考になるのは、次の文章です。

(略)また一ツ昔の地図の便利な事は雪月花の名所や神社仏閣の位置をば殊更目につきやすいように色摺にしてあるのみならず時としては案内記のようにこの処より何々まで凡幾町植木屋多しなぞと説明が加えてある事である。

名所や神社仏閣を色摺りにしているというところから見て、荷風が使った切絵図はおそらく尾張屋板でしょう。ちなみに「植木屋多シ」という説明が目立つのは『東都駒込辺絵図』と『染井王子巣鴨辺絵図』です。
荷風は、さらに以下のように記しています。

見よ不正確なる江戸絵図は上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き柳原の如く柳ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また飛鳥山より遠く日光筑波の山々を見ることを得れば直にこれを雲の彼方に描示すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味津々よく平易にその要領を会得せしめている。

染井王子巣鴨辺絵図

ここに出てくる柳原を、尾張屋板の『日本橋北内神田両国浜町明細絵図(国際日本文化研究センターサイト)で確認してみましょう。神田川最下流部の南側土手には「是ヨリ筋違迄ヲ柳原通リト云」とあり、確かに道沿いに柳の木の絵が描かれています。「筋違」とは筋違橋、もしくは筋違御門のことで、筋違橋は今はありませんが、現在の万世橋と昌平橋の中間にあった橋です。この通りは、今でも「柳原通り」と呼ばれています。

また右の『染井王子巣鴨辺絵図』を見ると、飛鳥山のところに、筑波山の絵とともに「此所ヨリ筑波山見ユ」と記されているのがわかります。

まさに、この自由な描き方こそが江戸絵図の一番の魅力です。ただ正確なだけの地図には、こうした面白みはありません。荷風も、現代のわれわれと同じようなところに魅力を感じていたのです。おそらく江戸時代の人たちも、実際にその場に行く機会がなくても、こうした絵図を見ては想像を膨らませていたのでしょう。

さらに、荷風が愛用した地図は、江戸期の地図だけではありません。「江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図もまた江戸絵図と同じく、わが日和下駄の散歩に興味を添えしむるものである」とある通り、散歩の合間に明治初期の地図も眺めては、時代の変化に思いを馳せていたのです。たとえば、以下のような記述があります。

鉄砲洲なる白河楽翁公が御下屋敷の浴恩園は小石川の後楽園と並んで江戸名苑の一に数えられたものであるが、今は海軍省の軍人ががやがや寄集って酒を呑む倶楽部のようなものになってしまった。

「白河楽翁」とは、奥州白河藩主の松平定信で、老中として寛政の改革を主導したことで知られています。定信は晩年、築地にあった白河藩下屋敷の浴恩園で隠棲しています。下の『築地八町堀日本橋南絵図』[嘉永2(1849)年]では、浴恩園の場所が「松平越中守」下屋敷になっていますが、これは伊勢の桑名藩松平家の屋敷です。松平定信の子・定永は、文政6(1823)年に白河から桑名に国替えされています。浴恩園はそのまま桑名藩の下屋敷となったわけです。

築地八町堀日本橋南絵図

維新後、この地には海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)が建設されます。明治21(1888)年に海軍兵学校が広島県の江田島に移転した後、同地には海軍大学校が置かれました。さらに昭和7(1932)年に海軍大学校は目黒へと移転、その跡地には東京市中央卸売市場の築地市場が建設され、現在に至ります。

「海軍省の軍人ががやがや寄集って酒を呑む倶楽部のようなもの」とは、おそらく水交社のことでしょう。水交社は海軍の将校・高等文官の親睦団体で、東京のほか、横須賀・舞鶴などの各鎮守府や、主要な港に施設を持っていました。この施設が海軍将校の社交の場だったのですが、江戸明治東京重ね地図では、水交社があったのは桑名藩下屋敷ではなく、その西隣の尾張徳川家の蔵屋敷跡になっています。この付近には海軍の施設が集中しており、築地は「日本海軍発祥の地」と呼ばれていますが、その歴史は幕府の講武所までさかのぼることができます。

荷風は、江戸から東京へ街並が大きく変化したことを嘆いていますが、このように時代は移り変わっていく以上、昔の建物がなくなるのも仕方のないことではあります。そもそも築地自体が、明暦の大火の後で埋め立てて作られた土地なのですから、ひたすら時代をさかのぼっていくと、築地には何もない状態が元の自然な姿だということになってしまいます。

姿は変っても、その土地の歴史は、人々の記憶だけではなく、地図の上にも残るのがせめてもの慰めです。何十年後、あるいは何百年後の人たちも、現代の地図を見て、荷風や今のわれわれと同じような悦楽に浸ることでしょう。地図は、時代を越えて生き続けるのです。

※切絵図の画像は国立国会図書館デジタル化資料を使用しました。

『日和下駄』引用元:青空文庫

地図の雑学に戻る

最終更新日:2013/1/1
公開日:2012/6/6