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今に残る江戸の地名

江戸切絵図と現在の地図を比較して気づくことの一つは、地名の大幅な変化です。古い地名がなくなったことに対する嘆きの声がよく聞かれますが、確かに昔の町名にはなんともいえない味があります。

築地八町堀日本橋南絵図

一例として、上の『築地八町堀日本橋南絵図』(国立国会図書館デジタル化資料)で日本橋・京橋近辺を見てみましょう。呉服町・南大工町・南鞘町・南塗師町・畳町・具足町・青物町といった由緒ある地名がありましたが、現在では日本橋~丁目とか京橋~丁目、八重洲~丁目といった味も素っ気もない地名に変えられています。

一方で、旧牛込区(現在の新宿区の一部)の地域などには江戸以来の地名が残っています。払方町・納戸町・細工町・箪笥町などです。払方町は江戸時代そのままの名前で、納戸町・細工町・箪笥町は江戸時代はそれぞれ御納戸町・御細工町・御箪笥町と呼ばれていました。これらの町は、いずれも同心の拝領屋敷があったところで、同心の職名が地名になっています。

払方町・納戸町・細工町の地図をMapionで見る

納戸町は、将軍家の金銀・衣服等の出納や、大名・旗本から将軍への献上品の管理を担当した納戸役同心の拝領屋敷があったところです。箪笥町は具足奉行・弓矢鑓(やり)奉行組同心の拝領屋敷で、「箪笥」とは家具のタンスではなく武器のことを指します。細工町は城内の道具類の管理や調達に関わる細工同心の拝領屋敷、払方町は将軍から大名・旗本への下賜品の出納を担当した払方同心の拝領屋敷でした。

市ヶ谷牛込絵図

ところが右の切絵図『市ヶ谷牛込絵図』[嘉永4(1851)年](国立国会図書館デジタル化資料)を見ると、これらの町はいずれも町人地の印である灰色に塗られています。これは、切絵図が作られた頃には同心の屋敷から町人地に変わっていたことを示しています。箪笥町は正徳3(1713)年に町奉行支配になっているので、同心が住んでいたのはそれ以前のことでしょう。

このあたりは町人地はあってもごくわずかで、ほとんどが武家地です。御納戸町の隣には「御徒組」と記された武家地のエリアがあります。江戸東京重ね地図では「御徒組大縄地」と記されています。下級武士に拝領屋敷が与えられる際には、個人にではなく、同じ組ごとに屋敷地が一括して与えられることがありました。これを大縄地と呼びます。牛込界隈には大縄地が多く、他にも大番組、持筒組などの大縄地がありました。

この御徒組大縄地は牛込御徒町と呼ばれ、北御徒町・中御徒町・南御徒町に分かれていましたが、これが今ではそれぞれ北町・中町・南町になっています。この区域は、道路が町の境界線になるのではなく、一本の道路を挟んで向かい合った土地が同じ町になっています。こうした町のことを両側町といいますが、江戸東京重ね地図で見ると、これは江戸時代の町割そのままであることがわかります。

なお御徒組の大縄地は江戸中至るところにありましたが、江戸東京重ね地図を使って検索すると、特に今のJR御徒町駅から上野駅周辺に御徒組の大縄地が集中していたことがわかります。この御徒町という地名ももちろん御徒組から来ているのですが、現在では町名としての御徒町はなくなり、駅名にその名残をとどめるのみとなっています。

参考文献:追川吉生『江戸のなりたち(2)武家屋敷・町屋』新泉社

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最終更新日:2013/1/1
公開日:2008/12/4