地図趣味のすすめ

地図趣味のすすめtop >地図の雑学 >池波正太郎と地図

池波正太郎と地図

地図趣味の対象である江戸の古地図も、江戸を書く作家にとっては、仕事をする上での必需品となります。火付盗賊改の長谷川平蔵の活躍を描いた『鬼平犯科帳』で有名な池波正太郎も、江戸切絵図を参考にして小説を書いています。彼が初めて切絵図を手に入れたのは昭和30(1955)年のことで、まだ小説を書いてはおらず、芝居の脚本・演出をしていた時に古書店で近吾堂板の切絵図一揃を購入したそうです。

長谷川平蔵の役宅は、『鬼平犯科帳』では清水門外にあります。このことについて、池波正太郎は次のように記しています(池波正太郎『江戸古地図散歩』平凡社より)

 私の〔鬼平犯科帳〕の主人公で火付盗賊改方長官・長谷川平蔵の役宅を、この清水門外に設定したのも、このあたりの江戸城・内堀の景観が好きだったせいかも知れぬ。
 また一つには、鬼の平蔵が盗賊改方に就任した当時の屋敷を、〔武鑑〕によって調べて見ると、むかしは江戸の郊外といってもよかった目白台になっている。
 これでは、江戸の特別警察ともいうべき役目をつとめる上に、小説の上で、いろいろと面倒なことが多い。盗賊改方の長官になると、私邸をそのまま〔役宅〕にするのが通例であったが、そうしたわけで、私は彼の役宅を清水門外に移したのである。平蔵の屋敷は、もともと本所にあったのだが、父・宣雄の代に、京都町奉行所に転じ、宣雄の死後、後をついだ平蔵が江戸へもどり、目白台へ屋敷を賜ったものか……
 しかし、平蔵亡きのち、後年の長谷川家は本所の屋敷へもどったとも聞いている。

寛政武鑑

これには、長谷川平蔵の屋敷が目白台にあったとありますが、実際には本所です。右の『寛政武鑑』[寛政7(1795)年]には、「盗賊并火付御改」の項に長谷川平蔵が載っており、そこには「本所きく川丁」(本所菊川町)と記されています。

左下の『本所深川細見図』[安永4(1775)年]には、三ツ目橋から南に行ったところに長谷川平蔵の屋敷が記されています。ちなみに長谷川平蔵の屋敷は、のちに「遠山の金さん」こと遠山金四郎の屋敷になりました。右下の『深川絵図』[嘉永5(1852)年]を見ると、長谷川平蔵の屋敷だったところに「遠山左エ門尉」とあります。屋敷跡は現在の墨田区菊川三丁目で、都営地下鉄新宿線の菊川駅前に当たります。

本所深川細見図

本所深川細見図 右が北、左上が長谷川平蔵の屋敷

深川絵図

深川絵図

『鬼平犯科帳』では、切絵図で「御用屋敷」となっている清水門外の場所を平蔵の役宅に利用したということです。『飯田町駿河台小川町絵図』を見ると、確かに清水御門のすぐ外に御用屋敷があります。現在の千代田区役所のあたりです。

火付盗賊改は先手組(さきてぐみ)が務めました。先手組は、弓組と鉄砲組にわかれており、江戸城の門の警衛や、将軍の警固が本来の任務です。小説では、長谷川平蔵の部下である先手組の組屋敷が四谷にありますが、これは史実通りです。別に四谷でなくてもよかったのですが、平蔵の役宅が清水門外なので、四谷なら部下の出勤に便利だということで四谷にしたそうです。下の『四ツ谷絵図』を見ると、「尾張殿」とある尾張徳川家の上屋敷(現在の防衛省)前に「御先手組」と記されたエリアがいくつかあるのがわかります。これは現在の新宿区住吉町・片町・坂町・三栄町あたりです。

四ツ谷絵図

四ツ谷絵図

このように池波正太郎は、古地図を活用して小説を書いていたのですが、それだけでなく、散歩の時にも常に古地図を持ち歩いては現代の東京の街と見比べていました。彼の作品の中では、『鬼平犯科帳』と並んで藤枝梅安の仕掛人シリーズも有名ですが、「仕掛人」という言葉を思いついたのも、近吾堂板の絵図を持って浅草・橋場のあたりを歩いていた時のことでした。

浅草生まれの池波正太郎は、小学校5年になると、地図を買って市電で東京巡りを始めたそうです。「むかしの東京の下町で暮していた子供は、よほどの用事がないかぎり、他の土地へは出て行かない」(池波正太郎『江戸切絵図散歩』新潮社)とのことなので、当時としては珍しい少年だったのでしょう。その街歩きと地図の趣味が、後になって小説に生かされたと言っていいかもしれません。

エッセイの中で彼は、古地図に描かれた江戸の町の姿を、自分が若い頃に見た景色と結びつけて語っています。大正12(1923)年生まれの池波にとって、まだ江戸の名残はそう珍しくはない風景だったのです。自分が生まれた街や働いていた街を切絵図で確かめることができる人というのは、幸せな人と言えるでしょう。歴史の流れを、自分の経験と引き合わせて実感できる人というのは、そうそういないものです。

古地図から得たイメージを膨らませて、その場の風景までも描いてみせるのが池波正太郎の手法ですが、その背後では自らの体験も大きな役割を果たしています。彼の回想を読むと、子供の頃から寄席に行ったり、江戸料理を堪能したりで、東京暮らしを満喫していたことがわかります。東京の街を知り尽くしていたからこそあれだけの小説が書けたわけで、ただ地図の上から江戸と東京を知るだけでは、とうてい『鬼平犯科帳』は生まれなかったでしょう。

とは言え、地図なくしては『鬼平犯科帳』は生まれなかったこともまた確かです。地図で知った江戸と、実生活で知った東京の姿が溶け合って生まれた人と町の匂い。それが、池波作品の魅力でしょう。

※武鑑・絵図の画像は国立国会図書館デジタル化資料を使用しました。

参考文献:池波正太郎『新版 江戸東京古地図散歩』平凡社

地図の雑学に戻る

最終更新日:2013/1/1
公開日:2012/12/12