地図趣味のすすめ

地図趣味のすすめtop >地図の雑学 >地図の上は北?

地図の上は北?

現在では、特別断りのない限り地図の上は北というのが決まりになっています。 これは、昔から変わらない習慣だったのでしょうか?

人類の歴史で、初めて科学的な地図が作られたのはローマ時代です。この時代、地図の発達に大きく貢献したのは、紀元2世紀のアレクサンドリアで活躍した天文学者・地理学者のプトレマイオスです。当時、大地が球体であることは既に知られており、プトレマイオスは円錐図法を考案して世界地図を作りますが、その地図では既に北が上になっています。

これはギリシア・ローマ時代の地理学の集大成といえる地図で、きわめて科学的なものでしたが、その後のヨーロッパ社会には受け入れられませんでした。中世のヨーロッパでは科学知識も後退し、地球も球ではなく平板と考えられるようになりました。
中世ヨーロッパの世界図の多くは、アルファベットのTとOを組み合わせたような形からTO図と呼ばれています。TO図は科学的知識というよりキリスト教的世界観を表したもので、地上の楽園がある東が上で、聖地エルサレムが中心に描かれていました。

もっとも東が上なのは世界図に限った話で、地域図や実用的な地図の場合はそうとは限りません。陸上の地図はあまり精密でなくても用を足せますが、目標物のない海上では正確な地図が必要となります。そこで13世紀頃、航海に便利なように多数の方位線を描いたポルトラノという海図が登場します。これは磁石の普及とあいまって発達したもので、すべて上が北になっています。
一方プトレマイオスの地図学はイスラム社会に継承されました。イスラムでは南方の赤道上に宇宙の中心が存在すると信じられており、イスラム圏では地図の上は南になりました。

やがてルネサンス期になると、ヨーロッパでもギリシア・ローマ時代の地図学が復興します。地球球体説も復活し、プトレマイオスの作った地図も再び日の目を見るようになりました。その後大航海時代が到来し、それに伴いさまざまな世界地図が作られるようになりますが、その多くが北が上です。
北が上で定着した理由についてはいろいろと論じられていますが、磁石や北極星と地図の方位を対比する際に、北が上の方が便利だからという説が有力です。

一方日本では特に決まりはありませんでした。
大型の地図では、四方から見やすいように、地名が最も近い辺から正しく読めるようになっており、一枚の図の中に四つの方向が混在しているものもあります。こうした図では、当然上下は問題になりません。これは、日本では地図を壁に掛けるのではなく、畳の上に置いて周りから眺めるのが多かったことが関係しています。

ただ、都市によってどの方角を上にするかが慣習的に決まっている場合もありました。
たとえば、江戸図では西を上にする習慣がありました。江戸は東が低地で、西に向かって標高が高くなります。鳥瞰図を描く場合には、高地を背景にして東から見て描くのが自然で、必然的に西が上になります。同じように京都の地図では北を上、大坂では東を上にする慣習がありました。
ただし、これにしても絶対的な決まりというわけではありません。江戸切絵図も、平野屋板は上が西で統一されていましたが、それ以外の板は方角は一定していません。

もっとも、日本全図では北西を上にしたものが多い印象を受けます。これはおそらく、紙面を節約するにはそうするのが一番効果的だからでしょう。有名な長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』[1846(弘化3)年](明治大学サイト)でも、北西が上になっています。しかし、凡例は逆向きに書かれ、地名の向きもバラバラに記されているところから見ると、あまり上下は意識されていないようにも思えます。

江戸も時代が下ると西洋から大量の地図が入ってくるようになります。そうした地図のほとんどは北が上で、日本の地図にも影響を与えたはずです。
ところが、幕末になっても北が上でない地図が作られています。勝海舟の『大日本国沿海略図』[1867(慶応3)年](明治大学サイト)では、南が上になっています。勝海舟はイギリスの地図を参考にしてこの地図を作っていますが、元の地図は北が上になっていたはずで、それをなぜ上下反転させたのかはわかりません。

やがて明治になると、北が上で定着します。この慣習が日本社会にどのように定着していったかを追うのは難しい作業ですが、これが西洋の地図の影響であることだけは確かです。

地図の雑学に戻る

公開日:2008/12/4