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森鴎外と地図

明治・大正期を代表する作家・森鴎外。その鴎外が地図を作ったという話を聞くと、驚かれる方が多いかもしれません。鴎外の小説『青年』は、次のような文章で始まります。

小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。

ここに登場する『東京方眼図』こそが、実は森鴎外自身が考案した地図です。1909(明治42)年8月の出版で、地図の左上には「森林太郎立案」と大きく書いてあります。その名の通り地図上に格子状の線が引いてあり、縦に一~十一、横は右から左に「い~ち」(いろは順)と記号が振ってあります。地名索引の小冊子が付属しており、たとえば「イヒダバシ飯田橋 麹町、牛込 へ四」とあるので、「へ」の「四」の部分を見れば飯田橋の場所がわかるという具合です。索引には、地名のほか、護国寺・後楽園といったランドマークや、官公庁、さらには大臣の官舎まで載っています。現在の地図ならごく当たり前の工夫ですが、こうした仕組みを取り入れたのは、日本の地図ではこの『東京方眼図』が最初ではないかと言われています。1921(大正10)年発行の早分かり番地入東京市全図もこの方式を採用しています。

『東京方眼図』の大きさは縦80×横56センチで、川・池が薄青、路面電車の路線が赤で記されています。縮尺は書かれていませんが、皇居の大きさから計算すると、ほぼ1:20000になります。なお定価は60銭です。ちなみに、1909(明治42)年の『中央公論』の価格は20銭です。現在の『中央公論』は800円なので、その三倍と考えると、今の地図の値段とさほど変りありませんが、1907(明治40)年の小学校教員の初任給は10~13円で、これと比較すると案外高く感じます。
※明治期の物価については『物価の文化史事典』(展望社)を参照。

Y県(山口県のことでしょう)生まれの主人公・小泉純一は、小説家を志してこの前日に初めて上京し、日蔭町(現在の住居表示では新橋)の宿に泊っています。翌日、根津の下宿屋に住んでいる小説家に会いに出かけますが、まだ小説家が寝ていたために千駄木方向へ散歩に出かけ、さらに小説家に会った後で上野へ行って文部省の展覧会を見て宿に帰っています。その次の日にまた上野に出かけ、博物館の前で「根岸の方へ行こうか、きのう通った谷中の方へ行こうかと暫く考えた」後、谷中の方に行ってそこでその日のうちに下宿を決めています。とても田舎から出てきたばかりとは思えない行動力で、先に上京していた同郷の青年に「まるで百年も東京にいる人のようじゃないか」と言われています。

鴎外が雑誌『スバル』上で『青年』の連載を始めたのは1910(明治43)年3月で、『東京方眼図』が出版されてから半年ほどしか経っていません。この地図を使えば、小泉のように、初めての東京でも迷うことはないということを宣伝したかったのかもしれません。鴎外自身は、1872(明治5)年に島根県の津和野から父と一緒に上京しています。当時鴎外は数えで11歳の子供なので、たとえ地図があったとしても、とてもその日から東京を自由自在に歩くというわけにはいかなかったと思います。

この地図は、鴎外が留学中にドイツで見たガイドブックを参考にして作ったのではないかと言われています。鴎外は文学者であると共に軍人でもあったわけですが、軍人にとっては、地図を読むことは必須の技能です。あるいは、軍人としての興味から来たものなのかもしれません。いずれにせよ、鴎外自身もこの地図を片手に東京を散歩したことでしょう。現代のわれわれも、『東京方眼図』を持って今の東京を歩くのも面白いかもしれません。

『青年』引用元:青空文庫

参考文献:坂崎重盛『一葉からはじめる東京町歩き』実業之日本社
※『東京方眼図』が付属しています。

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『東京方眼図』の復刻版が刊行されています。
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最終更新日:2012/7/29
公開日:2012/6/2