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古地図に見る日本海

日本列島とユーラシア大陸の間の海は日本海です。
ところが韓国は、この海を東海と呼ぶべきだと主張しています。韓国によれば、「歴史的には、2000年の間東海という名称が使われてきた」(韓国政府発行のパンフレット『EAST SEA:The Name East Sea Used for Two Millennia』)というのです。韓国は、日本海呼称は20世紀の日本の帝国主義政策によって確立されたものだとも主張しています。

なるほど日本海は韓国の東方にあり、韓国国内だけであればそう呼んでも何ら問題はありません。問題は、他の国に対してもそうした呼称を押し付けようとしていることです。
韓国だけが「東海」と呼んでいたというのでは説得力がないと考えてか、西洋人も日本海のことを「East Sea」や「Oriental Sea」の名で呼んできたと韓国は主張しています。日本海はユーラシア大陸の東にあるから西洋も「東海」と呼んでいた、というのが韓国の主張です。

実のところ、この問題は地理学や歴史学上の問題ではなく、政治の問題です。ですが、ここではあくまでも古地図にはどう書いてあるかということだけに限定して、日本海の問題を論じてみます。

日本海は「西海」だった?

繰り返しますが、日本海は「東海」と呼ばれてきたというのが韓国の主張です。
ところがなんと、西洋の古地図には日本海を「西海」と記した地図があるのです。

John Speedの地図[1626年](ミネソタ大学サイト、画面右「List of Map Images」の「Speed, John, 1552?-1629. (Asia)」をクリック)には、日本海と北太平洋に「THE WEST OCEAN」、つまり「西海」と記されています。さらに注目すべきなのは、この地図ではインド洋に「THE EAST OCEAN」、つまり「東海」と記されていることです。韓国の主張ではユーラシア大陸の東の海を意味するはずの「東海」が、インド洋を指して使われていたのです。

17世紀の地図には、他にも日本海を「西海」と記した例があります。
Nicolas Sansonの地図[1650年](大阪大学サイト)では、日本海と北太平洋に「OCEANUS OCCIDENTALIS」と記されています。ラテン語で「西方の大洋」という意味です。

日本海が「東海」と呼ばれてきたという韓国の主張は、早くも17世紀の地図で否定されてしまうのです。日本海は、「東海」どころか「西海」だったのです。

日本海呼称の変遷

もっとも、「西海」は日本海を指すのに使われた多くの呼称のうちの一つに過ぎません。
そもそも「日本海」という名前が地図上で初めて登場したのは、1602年、イタリア人宣教師Matteo Ricciが中国で編集した『坤輿万国全図(東北大学サイト)だといわれています。これには漢字で「日本海」と記されています。

ですが、17世紀には「日本海」はまだ定着するには至りませんでした。
17世紀から18世紀にかけて、日本海を指す名称としてはさまざまなものがありました。そのうちの一つが「中国海」です。

Nicolas Sansonの地図[1670年](大阪大学サイト)では、日本海から東シナ海、南シナ海にかけての広い海域に「MER DE LA CHINE」と記されています。フランス語で「中国海」という意味です。
ここで重要なのは、「中国海」という呼称にしても、今の日本海だけを指して使われたわけではないということです。日本海は他の海から明確に分離されたものであるとする考え方は、この当時にはまだなかったのです。

もう一つ目立つのは、「Oriental Sea」あるいは「Oriental Ocean」です。

例えば、Guillaume de Lisleの地図[1700年](David Rumsey Historical Map Collection)では、日本海に「MER ORIENTALE」、つまり「東洋海」と記されています。
この「Oriental Sea」または「Oriental Ocean」こそ、「東海」主張を裏付ける根拠として韓国側が挙げているものです。

ところが、ここでは「oriental」の解釈が問題になります。
韓国は、これを単なる方角としての東という意味と捉え、「Oriental Sea」を「東海」と訳しています。しかし、この場合は「東」ではなく「東洋」と解釈すべきです。「East Sea」であれば「東海」と訳しても問題ありませんが、「Oriental Sea」は「東洋海」と訳すのが適切です。「東海」と「東洋海」では、意味合いが全く違ってきます。
ところが、「East Sea」と記した地図は実はきわめて少ないのです。日本の外務省が行った調査では、アメリカで「Eastern Sea」と記した地図が5枚、ロシアで「東海」(実際に何と書かれていたかは不明)と記した地図がわずか1枚見つかっただけです。
さらに、大文字の「the East」の場合には「東洋」の意味もあります。「Eastern Sea」にしても、「東海」だと単純に決め付けることはできないのです。

「oriental」の解釈と関連してさらに問題となるのは、「Oriental Sea」が指す海域の範囲です。
ユーラシア大陸の東という意味で「Oriental Sea」という名称を用いるのなら、何もそれを日本海に限定する必然性はないはずです。日本海だけでなく、北西太平洋や東シナ海もユーラシア大陸の東になるわけですから、むしろ日本海に限定するのは不自然です。さらに「東洋の海」ということであれば、範囲はさらに拡大します。西洋から見ればインド洋も東洋の海になります。

事実、「Oriental Sea」の範囲は何も日本海に限定されていたわけではありません。インド洋や太平洋を指している地図も多いのです。
たとえばH. Schererの地図[1703年](大阪大学サイト)では、アラビア海からベンガル湾、南シナ海、太平洋にかけての非常に広い海域に「OCEANUS ORIENTALIS」(ラテン語で「Oriental Ocean」の意味)と記されています。これを見ても、「Oriental Ocean」がユーラシア大陸の東を意味する「東海」だという主張には根拠がないことがわかります。
この地図でいう「Oriental Ocean」が一体どこの「東の海」なのでしょうか。
西洋に対する東洋と解釈する以外にありません。

韓国は、「Oriental Ocean」が日本海以外を指している地図が存在することを既に知っています。その上で、そうした地図についても「東海」主張を裏付けるものとして利用しようとしています。ところが、その利用の仕方には首を傾げざるを得ません。

かつて「Oriental Ocean」と呼ばれた海域

韓国政府発行のパンフレット『East Sea in Old Western Maps』は、日本海が「東海」と記された地図の一例としてNicola Sansonの地図[1667年]を挙げています(124頁)。日本海が「OCEANUS ORIENTALIS」と記されているというのですが、その地図をよく見ると、Schererの地図と同様、アラビア海からフィリピン東岸の太平洋までの非常に広い海域に「OCEANUS ORIENTALIS」と記されています。そしてその地図の横には、わざわざ「The sea is referred to as "OCEANUS ORIENTALIS", which covers not only the East Sea but also the South China Sea.」(東海は"OCEANUS ORIENTALIS"と記されているが、これは東海だけでなく南シナ海も含んでいる)と説明が加えられています。
しかしこの地図では、「OCEANUS ORIENTALIS」が日本海以外の海のことを指しているのは誰が見ても明白なのですから、韓国の主張を否定する材料にしかなっていません。なぜこんな地図を出してくるのか、全く理解に苦しむところです。

18世紀になると、一時的に「朝鮮海」の数が多くなります。例えば、Gilles Robert de Vaugondyの地図[1749年](大阪大学サイト)では、日本海は「MER DER CORÉE」、すなわち「朝鮮海」です。
ところが日本の太平洋岸は「OCEAN ORIENTAL」になっています。結局「Oriental Ocean」は、日本海だけを指したわけではないということがここでも明確になるのです。

一方で、もちろん「日本海」と記す地図もあります。
Johann Baptist Homannの地図[1707年](ミネソタ大学サイト、画面右「List of Map Images」の「Homann, Johann Baptist, 1663-1724 (Asia)」をクリック)では、日本海に「MARE IAPONICUM OCCIDENTALE」と記されています。ラテン語で「西日本海(日本西海?)」という意味です。日本の太平洋岸は「MARE IAPONICUM ORIENTALE」、つまり「東日本海(日本東海?)」です。また、インドからスマトラ島、ニューギニア周辺の海にかけては「OCEAN ORIENTAL」と記されています。
※以前は大きな画像が掲載されていたのですが、現在は画像が小さくなったので文字は確認できなくなりました。なお同じ地図は、国土地理院のサイト「古地図コレクション」でも見ることができます。「アジア図」カテゴリー内の284番の地図です。

さらに他の名称も存在します。
Isaac Tirionの地図[1745年](大阪大学サイト)では、日本海は「MARE DI KAMTZCHATKA」、つまり「カムチャッカ海」です。また日本の太平洋岸には「MARE DEL GIAPONE」(日本海)と記されています。この地図ではカムチャッカ半島が巨大化しており、サハリン・北海道と連続しています。日本海は日本の本州とカムチャッカ半島によって太平洋から分離される形になっています。

このように日本海にさまざまな名称が用いられたのは、日本海の形状が正しく認識されていなかったことが一つの原因です。西洋にとって日本北方は、北極・南極地帯と並んで最後までその地理が明らかでない海域でした。18世紀末の世界では、いわば海洋での最後のフロンティアだったのです。
日本海がカムチャッカ半島によって太平洋から隔てられているのであれば、「カムチャッカ海」の呼称も決して不自然ではありません。日本海の名称が確定されるまでには、探検によって北海道・サハリンの海岸線の形状が明らかにされる必要がありました。

「日本海」の定着

やがて19世紀に入ると、西洋では「日本海」という名称が主流になります。
そのきっかけとなったのが、18世紀末から19世紀にかけて西洋の探検隊が行った日本海沿岸の測量でした。1787年、フランスのJean François de Galaup, comte de La Pérouse(ラ・ペルーズ)の探検隊は西洋の船としては初めて日本海を航行し(その前年に北海道西岸に外国船が到来した記録があるが国籍は不明)、サハリン西岸などの測量を行うとともに宗谷海峡を確認しました。この航海により、以前考えられていたよりも日本海がさらに北に広がっていることが確認され、日本海の形状がほぼ明らかとなります。

La Pérouseの航海を元に作られた地図[1798年](大阪大学サイト)では、日本海に「SEA OF JAPAN」と記されています。この航海の成果は他の地図にも取り入れられ、「日本海」表記も定着に向かいます。

さらに、ロシアの提督Ivan Fedorovich Kruzenshtern(クルーゼンシュテルン)は1804年に日本海を航行し、北海道西岸とサハリン東岸を測量しています。これにより日本北方の沿岸地形はほぼ解明されました。La PérouseやKruzenshternなどの探検により、日本海は日本列島によって他の海から隔てられていることが改めて明確になったのです。
日本沿岸の航海後、Kruzenshternは『世界周航記』の中で日本海の定義についてふれ、「日本海は『朝鮮海』よりも『日本海』と呼ぶのがよい」と記しています。日本海にわずかしか面していない朝鮮の名前を用いるより、日本の名前を用いた方が適切だからです。
日本海航海後に作られたKruzenshternの地図[1813年](九州大学サイト)では、日本海が「Японское Море」、つまり「日本海」と記されています。この地図は西洋に大きな影響を与え、これ以降西洋では「日本海」の名称が一般化し、やがて国際的に定着することとなります。

なお日本では、もともと海に名称をつける習慣がありませんでした。地図でも日本海の部分が空白になっているものが多かったのですが、19世紀の地図には「朝鮮海」と記されたものも見受けられます。
例えば高橋景保の『日本辺界略図』[1809(文化6)年](明治大学サイト)では、日本海に「朝鮮海」と記されています。もっともこの図では、日本海の中央ではなく朝鮮半島のごく近くに記されていることはきわめて暗示的です。

同じく高橋景保の『新訂万国全図』[1810(文化7)年](明治大学サイト)でも日本海に「朝鮮海」と記されていますが、日本の太平洋側には「大日本海」と記されているのが目を引きます。

『日本辺界略図』は、シーボルトの著書『NIPPON』[1832年]に転載されていますが、その図(九州大学サイト)では日本海部分が「Japansche Zee」(日本海)になっています。わざわざ名称が書き換えられているのは、この時代には西洋では既に「日本海」の方が一般的になっていた証拠です。

そして「日本海」という呼称は、西洋から日本に「逆輸入」されます。
その一例が、山路諧孝(やまじゆきたか)の『重訂万国全図』[1855(安政2)年](明治大学サイト)です。
これは高橋景保の『新訂万国全図』の改訂版として作られた地図ですが、『新訂万国全図』では「朝鮮海」と記されていたのが「日本海」に変わっています。西洋では「日本海」と呼んでいるという情報が日本に伝わり、日本でも「日本海」の呼称を使うようになったのです。

「日本海」という呼称は日本人が名づけたのではなく、西洋で一般的になったものであることはこうした事実からも明らかになります。「日本海」は日本の帝国主義政策によって確立されたものだという韓国の主張は、まったく事実に反しているのです。

なお韓国にとっては、日本語で「朝鮮海」と記された地図の存在は誇らしいものらしく、こうした地図はしばしば韓国の主張を裏付ける材料として取り上げられています。
しかし、日本で「朝鮮海」と記した地図が存在したのは、日本には「日本海」という名称を世界に押し付けようとする意図がなかったことの現れともいえます。第一、「東海」を裏付ける証拠として「朝鮮海」と記された地図を挙げるのは、完全に論理が破綻しています。

こうして、日本海を指す名称は二転三転したのちに、最終的に「日本海」に収束するのです。

海洋の名称が定着するまで

日本海にさまざまな名称が当てられていたことは、今から考えると不思議な感じもします。ですがここでは、かつては海に対する認識が現在と違っていたことを理解しておく必要があります。
今でこそ我々は当たり前のように「太平洋」や「大西洋」といった名称を使っていますが、こうした大洋の名称が定着するまでにも長い時間がかかっているのです。

例えば太平洋の例を見てみましょう。ヨーロッパ人で最初に太平洋に到達したのはスペインのバルボアで、1513年にパナマ地峡を横断して太平洋に出ますが、この時彼は太平洋を「Mar del Zur」(南海)と命名します。その後1521年、世界一周航行の途中で太平洋を横断したマゼランは、この海を「Mar Pacífico」(太平洋)と名づけました。

しかし、「太平洋」という呼称はすぐに定着したわけではありません。16世紀から17世紀の世界地図の多くは、Gerard van Schagenの地図[1689年](Wikimedia Commons)のように、南米沖の太平洋に「MARE PACIFICUM」(太平洋)、赤道付近の太平洋に「MAR DEL ZUR」(南海)と記しており、二つの名前が併記される形となっています。ちなみにこの地図では、大西洋は「MAR DEL NORT」、すなわち「北海」です。これらに加えて、17世紀の地図では北西太平洋を「OCEANUS OCCIDENTALIS」(西海)と記したものもあります。またアジア沖の太平洋には、「中国海」や「東洋海」の呼称もありました。さらに19世紀になると、太平洋を「GRAND OCEAN」(大洋)と記した地図も登場します。

こうした名称が整理され、太平洋の呼称が「Pacific Ocean」(太平洋)に定まるのは、実に19世紀後半になってからのことで、「日本海」よりも遅かったのです。太平洋は一つの大洋であるという概念が定着し、それに統一した名称が与えられるまでにはこれだけの年月がかかっているのです。太平洋でさえこうなのですから、日本列島と中国大陸の間の小さな海などに「2000年の間変わらずにそう呼ばれてきた」名称など、存在するはずがありません。

いろいろな名称で呼ばれながら、最終的には「日本海」に収束した、その歴史の流れを理解する必要があります。ただ単に古い呼称を優先すればいいというものではありません。

百歩譲って「Oriental Ocean」が「東海」と訳せると仮定しましょう。
それでも、かつて日本海を「ORIENTAL OCEAN」と記した地図が存在したことをもって「日本海を東海と呼べ」と主張するのは、太平洋を「MAR DEL ZUR」と記した地図が存在していたことを根拠に「太平洋を南海と呼べ」と主張するのに等しいのです。

参考サイト:外務省 日本海呼称問題

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最終更新日:2013/1/1
公開日:2008/12/4